今日の恵みに感謝することが出来なければ、明日の恵みに感謝は出来ない
そういう言葉がうかんだ。
その日のお恵みをありがたいものと感謝すること…
とっても大事で、そして真です。
実は明日の恵みを豊かなものとしたいのであれば、今日の恵みに感謝することしか方法がない。
でも今日の恵みに感謝することなく、明日の豊かな恵みを望んでいるのではないでしょうか…
恵みとは物質的なものでもあります。
お金、作物、物質…
恵みとは非物質なものでもあります。
今日(今)の恵みに感謝します。
2008年08月12日
2008年05月27日
怒りは不安なんだ
昨日怒っちゃった

いろいろ書いておいて怒っちゃった…
やっぱりやめておけばよかったって思っちゃった
そしたら
怒りや悲しみや恐怖…
それらは不安が形を変えて現れたもの
そういう言葉がうかんだ。
私の中にある不安が、私というフィルターを通すと怒りになっていたんですね。
だから不安があることを認めて、それらを理解しようと思いました。
自分を信頼できるならば不安はないはずです。
これからもまた深く自分を探求していこうと思いました
いろいろ書いておいて怒っちゃった…
やっぱりやめておけばよかったって思っちゃった
そしたら
怒りや悲しみや恐怖…
それらは不安が形を変えて現れたもの
そういう言葉がうかんだ。
私の中にある不安が、私というフィルターを通すと怒りになっていたんですね。
だから不安があることを認めて、それらを理解しようと思いました。
自分を信頼できるならば不安はないはずです。
これからもまた深く自分を探求していこうと思いました
2008年05月25日
不確かな判断基準
嫌な事、したくない事を積極的に選択しなくなりました
楽しくて幸せな気持ちになる事を積極的に選択するようになりました
そういう選択をしていくうちに、その重要さがわかってきました。
その選択の判断基準も重要であるとわかってきました。
そして同時に自分が持っていた判断基準が、
自分の望んでいるものとかけ離れている事にも気がついたんです。
自分の望んでいた事、
幸せに生活したいと思い続けていました。
いやいや、そう思い込んでいたといった方が正確かもしれない。
もし選択の判断基準が自分の望んでいるものと重なっていたならば、
今自分は最高に幸せか?という問いに、いつでもYESと答えられるはずです。
しかし胸を張ってYESとは答えられません
幸せな事もあるけど、最高じゃない…
人のせいにしたり…
自分を責めてみたり…
仕方のない事だと諦めてみたり…
最高じゃないなら、自分が望んでいないならやめればいいと思いません?
でもやめないんですよね。
こういう選択をするようになるまで、そんな不自然な事を”当たり前な事”だと思っていました。
不自然なんて言う考えすらなかったのかな
自分が望んでいない自分になっている。
そしてその選択の基準も自分が望んだものじゃない。
そう、望んでいない!
望んでいないなら私は選んでいないんです!
私がいままで大事にしていた選択の判断基準は、私が選んだものじゃないんです。
これはおかしなことです。
最高におかしな事ですよ
自分が幸せになるための指針を、自分で選んでいないなんて…
”知っている事”と”知っているつもりでいる事”はかなり違います。
いままでの私の状態も、まさに知っているつもりになっていた事からくる間違いです。
自分が「こうしたい!その方が自分は幸せだ!」
と思っているのに、常識だの他人の趣向だのという要因が全てを麻痺させていきます。
自分は確かにそうしたいと思っていても、それが常識と違っていると、
自分の考えの方が間違っていると思うようになってしまった。
そうして自分を信じなくなって行ってしまった結果です。
自分を信じられなくて幸せになんてなれる訳はないのです。
なにも人のせいにしている訳ではありません。
そこで人のせいにして”怒った”としても、元の木阿弥です。
自分を信じなくなっていったのは、
自分だけのせいではないけれど自分のせいでもあるんです。
だから私は自分の考えた事、感じた事、思った事を否定する事をやめました。
それがどんなに非常識な事であろうと、
どんなに大それた事であろうと、
どんなに他人と違う事であろうと、
その考えは自分のものであるのだから、否定する事をやめたんです。
それが判断基準を正常化する思考だと思うんです。
楽しくて幸せな気持ちになる事を積極的に選択するようになりました
そういう選択をしていくうちに、その重要さがわかってきました。
その選択の判断基準も重要であるとわかってきました。
そして同時に自分が持っていた判断基準が、
自分の望んでいるものとかけ離れている事にも気がついたんです。
自分の望んでいた事、
幸せに生活したいと思い続けていました。
いやいや、そう思い込んでいたといった方が正確かもしれない。
もし選択の判断基準が自分の望んでいるものと重なっていたならば、
今自分は最高に幸せか?という問いに、いつでもYESと答えられるはずです。
しかし胸を張ってYESとは答えられません
幸せな事もあるけど、最高じゃない…
人のせいにしたり…
自分を責めてみたり…
仕方のない事だと諦めてみたり…
最高じゃないなら、自分が望んでいないならやめればいいと思いません?
でもやめないんですよね。
こういう選択をするようになるまで、そんな不自然な事を”当たり前な事”だと思っていました。
不自然なんて言う考えすらなかったのかな
自分が望んでいない自分になっている。
そしてその選択の基準も自分が望んだものじゃない。
そう、望んでいない!
望んでいないなら私は選んでいないんです!
私がいままで大事にしていた選択の判断基準は、私が選んだものじゃないんです。
これはおかしなことです。
最高におかしな事ですよ
自分が幸せになるための指針を、自分で選んでいないなんて…
”知っている事”と”知っているつもりでいる事”はかなり違います。
いままでの私の状態も、まさに知っているつもりになっていた事からくる間違いです。
自分が「こうしたい!その方が自分は幸せだ!」
と思っているのに、常識だの他人の趣向だのという要因が全てを麻痺させていきます。
自分は確かにそうしたいと思っていても、それが常識と違っていると、
自分の考えの方が間違っていると思うようになってしまった。
そうして自分を信じなくなって行ってしまった結果です。
自分を信じられなくて幸せになんてなれる訳はないのです。
なにも人のせいにしている訳ではありません。
そこで人のせいにして”怒った”としても、元の木阿弥です。
自分を信じなくなっていったのは、
自分だけのせいではないけれど自分のせいでもあるんです。
だから私は自分の考えた事、感じた事、思った事を否定する事をやめました。
それがどんなに非常識な事であろうと、
どんなに大それた事であろうと、
どんなに他人と違う事であろうと、
その考えは自分のものであるのだから、否定する事をやめたんです。
それが判断基準を正常化する思考だと思うんです。
2008年05月24日
怒りのない日々
怒りをやめる
とても単純な事です。
単純ですが、自分が今まで頑なにこだわっていた事でもありましたから、怒りがわき上がってくる事もしばしばありました。
でもそこは怒る事のプロフェッショナル(笑)だった私は、そのまま怒り続けたら自分がどうなるのかも知っています。
知っている事と体験する事は別です。
知っていても十分に体験していなければ、私は満足しなかった。
ちょうど学生の時に勉強した方が後の自分に役に立つと”知っていて”も、それを”体験していない”から勉強しないのと同じです。
ただ知っているだけじゃ満足できなかったんですね…
そのまま感情の波に流されて怒ってしまう事もありましたが、やはりその後にある虚しさや寂しさを味わうたびに、
やはり今の私には怒りは必要のない感情だと再認識しました。
その体験で私はやっと「知っている事を体験できた」と理解できました。
そしてだんだんと怒らない事ができるようになっていきました。
怒る事を当たり前に感じていた時にはそんな考え方は不可能でしたが、
”怒る事”と”怒らない事”が同時に存在し選択が可能だと気がついたのです。
何かの出来事があり、その出来事に対して私が”怒る事”を選択していたにすぎないのだとわかりました。
これはすごく主観的な行動なんです。
ちょっとややこしく聞こえるかもしれませんが、主観的だという事は、その感情”怒る事”を私が選んでいるという事になります。
意地悪な言い方をすれば、私が好きで選んでいるんです

いやいや、当の本人はしたくてそんな事してるんじゃない!
そう思っていましたよ。
「こんなにひどい事をされたんだ!怒るしかないじゃないか!」と
でもね、〜しかないと言っているのはそうする事にこだわっている事になりませんか?
一つの事、 −私の場合は怒る事− を徹底的に体験してみて、
すごく大事な事がわかりました。
すでに知っている事なら、知っている事を通して理解できるという事です。
私は怒った後に嫌な気持ちになる事を知っていました。
しかし十分に体験しなければ納得できなかった。
でもそんな効率の悪い事はないじゃないですか
全部を自分(無意識の自分も含めて)が納得できるまで、嫌な気持ちだろうとなんだろうと体験する必要があるんだろうか?
本当ならば知っている時点で理解できるはずなのです。
ならば好きこのんで嫌な体験を重ねるのはばかばかしい事です。
エネルギーも時間も無駄ですね
知っている時点で、体験に変える事が出来るはずなのです
そういうことです。
だんだんと「全ての事は自分で選んでいる」という事が体験的に理解できるようになってきました。
そうしていくうちに、自分のまわりで起こっている事が、
自分が意識するしないにかかわらず、
自分の意志で起こっているとわかってきたのです。
「出来事が起こった」という事が全てなのです。
どんなに巧妙に理屈をこねようと、ごまかそうとしても、
出来事が起こった事が何よりの証拠です。
出来事より確かな証拠はきっとないでしょうね。
そしてその体験が自分を嫌な気持ちにさせるなら、
その嫌な気持ちを味わい尽くすまでその体験をする事になるんですよ。
なんとばかばかしいことでしょう
そんな事やめた方がいいと思いませんか?
嫌な気持ちを味わい尽くすなんて…
私はやめたい
だからやめる事にしたんです。
そんな嫌な気持ちになる事を全てやめる事にしました。
楽しくなる事だけでいいんです。
私は楽しく幸せなのがいいんです
私はすごくそう思うようになりました。
とても単純な事です。
単純ですが、自分が今まで頑なにこだわっていた事でもありましたから、怒りがわき上がってくる事もしばしばありました。
でもそこは怒る事のプロフェッショナル(笑)だった私は、そのまま怒り続けたら自分がどうなるのかも知っています。
知っている事と体験する事は別です。
知っていても十分に体験していなければ、私は満足しなかった。
ちょうど学生の時に勉強した方が後の自分に役に立つと”知っていて”も、それを”体験していない”から勉強しないのと同じです。
ただ知っているだけじゃ満足できなかったんですね…
そのまま感情の波に流されて怒ってしまう事もありましたが、やはりその後にある虚しさや寂しさを味わうたびに、
やはり今の私には怒りは必要のない感情だと再認識しました。
その体験で私はやっと「知っている事を体験できた」と理解できました。
そしてだんだんと怒らない事ができるようになっていきました。
怒る事を当たり前に感じていた時にはそんな考え方は不可能でしたが、
”怒る事”と”怒らない事”が同時に存在し選択が可能だと気がついたのです。
何かの出来事があり、その出来事に対して私が”怒る事”を選択していたにすぎないのだとわかりました。
これはすごく主観的な行動なんです。
ちょっとややこしく聞こえるかもしれませんが、主観的だという事は、その感情”怒る事”を私が選んでいるという事になります。
意地悪な言い方をすれば、私が好きで選んでいるんです
いやいや、当の本人はしたくてそんな事してるんじゃない!
そう思っていましたよ。
「こんなにひどい事をされたんだ!怒るしかないじゃないか!」と
でもね、〜しかないと言っているのはそうする事にこだわっている事になりませんか?
一つの事、 −私の場合は怒る事− を徹底的に体験してみて、
すごく大事な事がわかりました。
すでに知っている事なら、知っている事を通して理解できるという事です。
私は怒った後に嫌な気持ちになる事を知っていました。
しかし十分に体験しなければ納得できなかった。
でもそんな効率の悪い事はないじゃないですか
全部を自分(無意識の自分も含めて)が納得できるまで、嫌な気持ちだろうとなんだろうと体験する必要があるんだろうか?
本当ならば知っている時点で理解できるはずなのです。
ならば好きこのんで嫌な体験を重ねるのはばかばかしい事です。
エネルギーも時間も無駄ですね
知っている時点で、体験に変える事が出来るはずなのです
そういうことです。
だんだんと「全ての事は自分で選んでいる」という事が体験的に理解できるようになってきました。
そうしていくうちに、自分のまわりで起こっている事が、
自分が意識するしないにかかわらず、
自分の意志で起こっているとわかってきたのです。
「出来事が起こった」という事が全てなのです。
どんなに巧妙に理屈をこねようと、ごまかそうとしても、
出来事が起こった事が何よりの証拠です。
出来事より確かな証拠はきっとないでしょうね。
そしてその体験が自分を嫌な気持ちにさせるなら、
その嫌な気持ちを味わい尽くすまでその体験をする事になるんですよ。
なんとばかばかしいことでしょう
そんな事やめた方がいいと思いませんか?
嫌な気持ちを味わい尽くすなんて…
私はやめたい
だからやめる事にしたんです。
そんな嫌な気持ちになる事を全てやめる事にしました。
楽しくなる事だけでいいんです。
私は楽しく幸せなのがいいんです
私はすごくそう思うようになりました。
2008年05月23日
”怒り”のコントロール
自分の中にある把握しきれない感情。
いつの間にか自然にわき上がってくる怒り、不安、悲しみ、虚しさ…
人によってその感情は様々ですが、”どうすることも出来ない”ならばコントロールできていない。
私の取り組みたかった感情は”怒り”です。
その事がはっきりとわかったのはずっと後の事ですが、私の生活は常に怒りに満ちていました。
私はとにかく怒りっぽかった
非常に短気でした
家族と実家で過ごしている頃にも、
彼女とお付き合いしている時にも、
とにかく怒ることで自分を表現したかったんじゃないかと思えるぐらい怒っていました
今思うと実にばかばかしいですが、
当の本人はいたって真剣で怒ることが正当な表現であるかのごとく振る舞っていましたよ。
そんなに沢山怒っていたら血管ちぎれて病気になっちゃうかも〜?
と思うくらい…なんてことはさておき(w
しかし私は怒る事は当然だと思いながらも、怒る事が自分を疲弊させている事も同時に感じていました。
怒る事に疲れ果てている自分も感じ始めていたんですね。
その時の自分にとっては怒る事はすごく正当な理由があって、
そうするのが当然な行為でしたが、
それでも怒った後の何とも言えない虚しさ…
相手を言い負かしてもすっきりしない後味の悪さ…
どれをとっても自分が満足する事なんて一つもなかったんです。
それでも正当な理由のために怒り続けていました。
なんて虚しいんでしょう…
自分でも呆れるぐらい何度も同じような気持ちになりました。
「全ての出来事は自分が望んで起こっている」
「自分は完璧な存在である」
「神という存在」
「時とはなんであるか」
「三位一体の真理」
そう、朝叶の誕生も大事なきっかけだったなぁ。
いろいろな事が同時に進行していたので、ここに全てを書いていく事は難しいです。
そういった理解と体験から、自分の怒りに対する認識も変わっていきました。
自分は怒りという体験を、これほど体験して嫌がっている。
なのにまた同じ体験をしている自分がいる。
それは”おかしい”
そう、おかしいのです。
嫌ならばやめればいい。
そう、嫌なんだからやめればいいのですよ!
こんな単純な事はないのです。
そして、本当に嫌なんだから”やめられるはず”だ!
と考えました。
そしてそう考えると、今までは本当の意味で”本当に嫌ではなかった”事になるのです。
だからそんなばかげた事は手放した方がいいと思ったんです。
そして私は本当に嫌なので”怒ること”をやめる事にしたんです。
いつの間にか自然にわき上がってくる怒り、不安、悲しみ、虚しさ…
人によってその感情は様々ですが、”どうすることも出来ない”ならばコントロールできていない。
私の取り組みたかった感情は”怒り”です。
その事がはっきりとわかったのはずっと後の事ですが、私の生活は常に怒りに満ちていました。
私はとにかく怒りっぽかった
非常に短気でした
家族と実家で過ごしている頃にも、
彼女とお付き合いしている時にも、
とにかく怒ることで自分を表現したかったんじゃないかと思えるぐらい怒っていました
今思うと実にばかばかしいですが、
当の本人はいたって真剣で怒ることが正当な表現であるかのごとく振る舞っていましたよ。
そんなに沢山怒っていたら血管ちぎれて病気になっちゃうかも〜?
しかし私は怒る事は当然だと思いながらも、怒る事が自分を疲弊させている事も同時に感じていました。
怒る事に疲れ果てている自分も感じ始めていたんですね。
その時の自分にとっては怒る事はすごく正当な理由があって、
そうするのが当然な行為でしたが、
それでも怒った後の何とも言えない虚しさ…
相手を言い負かしてもすっきりしない後味の悪さ…
どれをとっても自分が満足する事なんて一つもなかったんです。
それでも正当な理由のために怒り続けていました。
なんて虚しいんでしょう…
自分でも呆れるぐらい何度も同じような気持ちになりました。
「全ての出来事は自分が望んで起こっている」
「自分は完璧な存在である」
「神という存在」
「時とはなんであるか」
「三位一体の真理」
そう、朝叶の誕生も大事なきっかけだったなぁ。
いろいろな事が同時に進行していたので、ここに全てを書いていく事は難しいです。
そういった理解と体験から、自分の怒りに対する認識も変わっていきました。
自分は怒りという体験を、これほど体験して嫌がっている。
なのにまた同じ体験をしている自分がいる。
それは”おかしい”
そう、おかしいのです。
嫌ならばやめればいい。
そう、嫌なんだからやめればいいのですよ!
こんな単純な事はないのです。
そして、本当に嫌なんだから”やめられるはず”だ!
と考えました。
そしてそう考えると、今までは本当の意味で”本当に嫌ではなかった”事になるのです。
だからそんなばかげた事は手放した方がいいと思ったんです。
そして私は本当に嫌なので”怒ること”をやめる事にしたんです。
2008年05月21日
シェアしにくいのよね〜、でも大事♪
友人のみとさんも自分のブログの中で自己浄化がシェアしにくくて、人にはわかりにくいことを書いていました。
その人が感じてきた感情は、その人にしか体験できません。
たとえ親兄弟でも恋人でも全く同じ時間を過ごすことはできないでしょう。
更にはその人が”いつから”その自己浄化に取り組むのかのタイミングもあります。
同じような怒りの感情を持っていたとしても、その感情を手放したいと感じている人と、人間だから仕方ないと思っている人では感じ方は真逆です。
だから自己浄化はシェアしにくいのです
それでも自己浄化はとても大切です。
自己浄化、自分を深く知る、感情の再体験…言い方はなんでも構わないと思います。
自分が本当は何を感じているのかを知ること、それが自己浄化です。
本当に感じている感情を他人の判断で処理するのではなく、自分の考えで判断すること、それが自己浄化です。
そういった事は、自分が思っている以上に自分に対しての影響が大きいのです。
またそれを理解することは、自分が望んでいる最高の自分になるための手段でもあります。
今の自分に最高に満足しているのであれば、その人の自己浄化は完了していますから、今の自分を最高に楽しんで下さい
もしそうでないなら考えてみるといいと思います。
自分の考える事が”今、当たり前と思っている常識”にどんなに反していても、
周りの人達がどんなに非難したとしても、
自分がそう考えていることを認めてみて下さい。
どんなに大それた考えだと思えることでも、その人のケースに照らし合わせれば間違ったことなど一つもないのです。
自分を、そして自分の考えを一つも否定しないことです。
私はそんな風に自分の怒りに取り組んでいきました
その人が感じてきた感情は、その人にしか体験できません。
たとえ親兄弟でも恋人でも全く同じ時間を過ごすことはできないでしょう。
更にはその人が”いつから”その自己浄化に取り組むのかのタイミングもあります。
同じような怒りの感情を持っていたとしても、その感情を手放したいと感じている人と、人間だから仕方ないと思っている人では感じ方は真逆です。
だから自己浄化はシェアしにくいのです
それでも自己浄化はとても大切です。
自己浄化、自分を深く知る、感情の再体験…言い方はなんでも構わないと思います。
自分が本当は何を感じているのかを知ること、それが自己浄化です。
本当に感じている感情を他人の判断で処理するのではなく、自分の考えで判断すること、それが自己浄化です。
そういった事は、自分が思っている以上に自分に対しての影響が大きいのです。
またそれを理解することは、自分が望んでいる最高の自分になるための手段でもあります。
今の自分に最高に満足しているのであれば、その人の自己浄化は完了していますから、今の自分を最高に楽しんで下さい
もしそうでないなら考えてみるといいと思います。
自分の考える事が”今、当たり前と思っている常識”にどんなに反していても、
周りの人達がどんなに非難したとしても、
自分がそう考えていることを認めてみて下さい。
どんなに大それた考えだと思えることでも、その人のケースに照らし合わせれば間違ったことなど一つもないのです。
自分を、そして自分の考えを一つも否定しないことです。
私はそんな風に自分の怒りに取り組んでいきました
2008年05月20日
自己浄化しよー
整体戦士は、体を楽にするのが仕事
そして体のことを深く考えれば考えるほど、自己浄化の大切さや奥深さを再認識するのです
自己浄化とは自分の中の、自分が忘れている感情の "解放" や "理解" です。
自分の中に歪んだ感情があると、その感情は知らんぷりしていても、無かったことにしてみても、いつしか自分の存在を知ってもらいたくて動き出します。
そして動き出した結果として病気になったり痛みになったりするんです。
私は、体を楽にするのが仕事
こうしたことを知ってもらうというのも、体が楽になるプロセスの一つになります。
どうか自分のうちにある感情に目を向けてみて下さい。
自分も病気も痛みも楽になるはずです
そして体のことを深く考えれば考えるほど、自己浄化の大切さや奥深さを再認識するのです
自己浄化とは自分の中の、自分が忘れている感情の "解放" や "理解" です。
自分の中に歪んだ感情があると、その感情は知らんぷりしていても、無かったことにしてみても、いつしか自分の存在を知ってもらいたくて動き出します。
そして動き出した結果として病気になったり痛みになったりするんです。
私は、体を楽にするのが仕事
こうしたことを知ってもらうというのも、体が楽になるプロセスの一つになります。
どうか自分のうちにある感情に目を向けてみて下さい。
自分も病気も痛みも楽になるはずです
2008年05月19日
本当にそうしたいのか?
しばらくブログを休んでいました。
書く気持ちが無い訳ではありませんでしたが、本当に自分がブログを書きたいかわからなくなったからなんです。
書かなくちゃいけない…
書くべきだ…
なんて理由で書いていても楽しくなるはずありません。
ブログは楽しみで始めたものだし、自分が楽しくなければブログも楽しくなくなっちゃいます。
で、やっぱり書きたいこともあるし、書きたくない時もあります。
(笑)
だからその時の自分の気持ちに正直にしてみようと思います
書く気持ちが無い訳ではありませんでしたが、本当に自分がブログを書きたいかわからなくなったからなんです。
書かなくちゃいけない…
書くべきだ…
なんて理由で書いていても楽しくなるはずありません。
ブログは楽しみで始めたものだし、自分が楽しくなければブログも楽しくなくなっちゃいます。
で、やっぱり書きたいこともあるし、書きたくない時もあります。
(笑)
だからその時の自分の気持ちに正直にしてみようと思います
2008年05月04日
ダウンしてたのね…
しばらくサーバーがダウンしてたようです
アクセスして下さっていた方にはご迷惑おかけしました
復活はしたようですけど、接続は重くなっているようです。
こういう事は初めてですけど、やはりあることなんですね。
ちょっとびっくりしています。
アクセスして下さっていた方にはご迷惑おかけしました
復活はしたようですけど、接続は重くなっているようです。
こういう事は初めてですけど、やはりあることなんですね。
ちょっとびっくりしています。
2008年04月30日
チャロアイトほしー
mixiでは写真で紹介していた石たち。
これはMyブレスレットです。
友人がチャクラに対応したブレスを着けているのを見て、とてもかっこいいと思い作りました
石に興味のある知人や友人たちは、必要な時に必要な石がやってくるもんだよ
というのもチャロアイトが欲しいんです
このブレスレットはとても気に入っていましたが、今はなんだか妙にチャロアイトが欲しいんです
写真のブレスの紫色の石がそれです。
一粒とかじゃなくて、ブレス全体がチャロアイトがいいんですよ。
そういうのが欲しいんです
ちょっと前にヤフオクを見ていたらチャロアイトがあったので、あ
と思って検索してみました。
するとすごく安くて綺麗なチャロアイトのブレスがあるじゃないですか!
これはもうタイミングだ
そうしたら2500円で落札できちゃったんです。
私が買ってきたチャロアイトは1粒1000円もしたのに
商品が到着して開けてみたら、オークションの写真と全然違う…
すごく白くてあんまり綺麗じゃない
チャロアイトっていう石は紫色の石なんですが、何種類かの材質が混ざっているためマーブル模様なんですよ。
紫と白と黒と茶色が混ざっていて、紫と白とが綺麗に混ざっているものが高く、そうじゃない物は安いみたいなんですね。
これあとから調べてわかりました。
↑これは最上質のもの。
↑こちらは割と品質の低いもの。違うでしょ?
私のところに来たものは白と黒が多くてほとんどでした。
綺麗な紫はあまり入っていませんでした
上の写真の品質の低いものよりもよくない感じだったんです。
う〜ん。残念。
でもネットで画面を見ていた感じではすごく色もよかったんですよ。
写真だけでの買い物って難しいんでしょうか?
これって実はタイミングじゃないのかな?(w
それでもまだ今も欲しいなぁと思うんですよね〜。
いいものはそれなりの値段って事でしょうか?
でも石の値段っていまいち品質と値段が見えてこないんですよね
